長宗我部元親

長宗我部氏は、鎌倉時代の始め頃に秦能俊(はた よしとし)が信濃から土佐長岡郡宗部(そかべ)郡(現南国市)に移り、長宗我部と名乗りだしたと言われていますが、定かではありません。この頃から、七つ方喰の家紋を旗印として発展し、岡豊(おこう)城を本拠地とします。そして、守護であった細川氏の庇護を受け、勢力を伸ばします。ところが、永正4年(1507年)細川政元が死去し、19代当主・長宗我部兼序(かねつぐ)は、後ろ盾を失います。

土佐の守護であった細川氏の力が衰えると、土佐国内の豪族が台頭し、力をつけてきます。土佐の幡多郡は細川氏と並んで一条氏が治めていましたが、幡多郡以外の地域で土佐戦国の七雄が(津野氏、大平氏、吉良氏、本山氏、安芸氏、香宗我部氏、長宗我部氏)並び立ち、互いに勢力の拡大を図ります。

永正5年(1508年)、本山氏、山田氏、吉良氏、大平氏らの連合軍は、長宗我部氏の本拠地である岡豊城を攻め、岡豊城は落城します。兼序は岡豊城で戦死、子・国親(元親の父)は、幡多庄の守護であった一条家に逃れます。そして、国親は一条家の保護により成長し、永正15年に一条氏のとりなしで岡豊城に帰ります。

岡豊城に戻った20代当主・国親(くにちか)は、次第に戦力と経済力を蓄えます。永正16年頃に、南の大津城を攻め天竺氏を滅ぼし、長岡郡の南部を制圧。そして、東部に在する山田氏を打ち、子の親泰(ちかやす・国親の三男)に香宗我部氏を継がせ、香美郡全域を支配下におきます。

その後、国親は本山氏に属していた秦泉寺(じんぜんじ)氏、大高坂(おおたかさ)氏、国沢氏と相次いで戦い、永禄3年(1560年)頃から本山氏と戦いますが、浦戸城攻略中に急病で6月15日に57歳で亡くなります

龍馬記念館の長宗我部 龍馬記念館の長宗我部